最後の超念力 第三弾 Part.4

 

能力を悲観してはいけない。自分の能力にあった創造力がある

人間の心は、人間を創った神の心である。
それ故、ESPに現われる力は、私の力ではない。
ただ信頼され、私は一生懸命にやってきただけである。
東大をトップで卒業したN氏は、三千件近い特許権を持っている。
以前、私と対談をした時、私はこんな質問をしたことがあった。
「先生の発明はすごいですね。会社で働く人はみなさんエリートばかりなのでしょう?」
ところが意外な答えが返ってきた。
「いいえ。エリートは発明なんてできません。私の会社の社員は百人が百人共高卒で、
しかも落ちこぼればかりです。」
私はこれを聞いて驚いた。
そして特に若い人に心から訴えたいことがある。
能力を悲観してはいけないのである。
なぜなら自分の能力にあった創造力が必ずあるからである。
真似しようと思うから、落ちこぼれだと思ってしまうのである。
確かに学歴はあるにこしたことはない。
しかしなくても絶対に心配はいらない。
ひらめきを行動に移すことこそ大切である。
どんな人でも歩いている時、素晴らしい考えが頭をよぎるはずである。
けれども往々にしてそれを忘れてしまう場合が多いのは、行動をしないからに他ならない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

優しさは 「ま心」 である

 
子供の頃、人に接するには誠心誠意でなければならぬと深く教えられたことを思い出した。
しかし、今は懐かしい美徳の記憶のように現実は至難である。なぜだろう。
時の流れは唯我独尊の教育に人の心の美しさが遠くの方へ押し流されているようで
心空しく、了見の狭さに生きる厳しさを覚える。
ところが自由なる優しい心の波紋は明るく限りなく美しい。
その楽しさはまさに人生のパラダイスだ。
優しい心の前には何の用心も、懸念もなく、誰でもスグ良き友になれる。
優しい心、思いやりの心は自分を飾ってはその心になれない。
自分を捨ててこそ本当に優しさが現われ、人の心に同化することができるからで、そこに
人生の喜びの極致がほのぼのと生まれ、毎日の生活が楽しくなる。
ESP社会はま心というのはまったくこれである。
また優しさはま心がなければ態度に現わすことはできなく、優しさを真似た話には聞く人の
顔に喜びはない。
本当の優しさは真実の心がなければ相手に心からの信頼の喜びはない。
だから私は優しさはま心です、と言うのである。
近頃、私にサインを求める人達に、「優しさはま心です」 と書いているが、手渡す時の
その人の心からの喜びに私も一緒に感激してしまうのだ。
あれこれと人生の幸福の所信を語る必要はない。優しさはま心である。
思っただけでも、世の中が楽しくなり、心底から生きる情熱で、日々の生活に元気と
勇気が湧き出る。ESP社会はま心で包まれ、美しい大輪の花が咲き乱れている。
だから思う通りになり、ESP社会は苦労もなければ、悩みもない。
人間として他の人々に思いやり一筋がま心であり、そこから自ずと優しさがふつふつと
人の喜びを誘うのだ。人間社会は人の心も表と裏が露出し、(これを偽善という)生存競争
著しく、今日の楽しさが明日は悲哀となる。
一寸の油断もできない不安ばかり。
これは極端な厭世の洞察感とも言えるが、遠からず、近からずではないだろうか。
誰でも、この浮世のはかなさは判ってはいるが不透明な現実社会ではどうしようもない。
ESP社会ではこの 「どうしようもない」と迷うのは禁断の教えであり、講演会では毎回
念を押して叫んでいる。ま心に迷いがあってはま心にはならない。
ま心と教養は比較してはならない。
ま心は先天的に授けられた人の心であり、教養は知的品格で外面作為である。
人々一様ではないが、前者は先天的に人間に授けられた本能である。
だが人は皆、心の奥底は一様である。実証は簡単である。
たとえば、講演会場で言葉も出ない、首も座らない、歩けない幼児が数分もせずに言葉を
発し、足に俄然力が入り歩き出す。
傍でこの有様を目撃した人々の目に涙が光る。
他人の幸せに涙する、この美しい場面は演技ではできない。
これこそ先天性人間の心、すなわちま心でなくてなんであろうか。
優しさも、意識的行動はま心でなく、自ずと流れに乗り、人が喜ぶのがま心である。
優しさの行動には責任を自覚しているから明るい所以である。
だからESP社会は明るく、幸せなのである。
 

幸せになる人、なれない人

 
ESPを心の支えにする人の集まりを見ていると、暗い顔はどこにもいない。
楽しくて、喜びに夢中になっている表情でよく分かる。
講演会でいつも口癖のように話す「人の喜びを、自分の喜びとしなさい」そのままの
極致である。人間社会の中にはESP (超常現象) がある。
超常現象は不可思議 (奇跡) だ。
この奇跡で難病、歩けない人、声の出ない人、耳の聞こえない人、まだまだ沢山ある。
病気ばかりではない。仕事まで急に活気が出る。
ESPでは病気に対してどう対応するかと言えば、家庭医学の常識で相手の患者を
約一分、想念するだけで症状が一変する。
医学で不可能なものも可能であるとなれば、それも医学的治療の話をしながらで即、
結果が現れる。
講演会では殆ど理解され、受け入れられて大変な興奮と数千人の人々の喜びに
支えられて、私も人間の本懐の絶頂で不死身を願うほどの楽しみである。
良い事とわかってもやろうとしない。成功は難しいどころか日々の生活に不安ばかりだ。
良いとわかればスグやる人が成功する。
良いことと知っても、そのことを理論的に評価するのは、現代知識人のプライド擁護の
常識だ。
それもよいだろうが、その理論に喜び、有難いご意見だと思う人がどれほどいるだろうか。
何事でも、事実を得るため、病気を治すための研究であるが、先に事実が現われ、
どんな手段でも病気が治れば、これに勝るものはない。
英国では念力療法が公認され、健康保険も適用されているそうだ。
日本医学界は完成されているが、大病院の入院患者のベッドにはESPのシールが
貼られ、患者もESP指導テープを流している光景が多くなった。
医師の方々にもESPをご理解してくれる人が益々多くなった。嬉しい。
ESPで治った人達の喜びが大合唱となるのも間近い。
病人は苦しんでいる。救いを待っている。
二十一世紀は数年後に迫った。本当にESPの宇宙時代がやってくる。
宇宙時代は科学ではない。
これ以上の科学は必要でないとまで思えてくる。二十一世紀は心の時代である。
人間本来のま心がなければ幸福にはなれない。
歴史は続くが、人の命には限りがあり、寿命百年は稀である。
たった一度の人生だ。
楽しく、愉快な生活を望むのは世界人類五十億人、幸せを願わない者は一人もいない。
一つしかない命を、大事にしなくてはならない。
二十一世紀、ESP宇宙時代、世界平和の鼓動が聞こえてくる。