ひらめきの行動 Part.3

 
神の力は無限 !! 無心に読んだ本の偉力
 
私は無宗教な人間であるが、便宜上「神」という言葉を使っている。
「超念力は神の力である」ということが、一番分かりやすい説明の仕方であると考えた
からだ。そしてまた、「この力は宇宙の力である」とも説いてきた。
宇宙の力を、もう少し説明すれば、宇宙を秩序だてている存在がもたらした力ということ
なのだ。
宇宙の秩序を成り立たせているのは、宇宙の心であるという点だ。
心は人間だけにあるのではない。
大宇宙から、銀河系宇宙、太陽系小宇宙、すべて宇宙の心によって統一され秩序立て
られている。
それらの心が、あたかも宇宙線の如く放射され、人々に宿ったのが人間のま心なので
ある。
逆に言えば、人間のま心をさかのぼれば、大宇宙に到達するのだ。
もう少し言葉を換えれば、人々の心は、大宇宙の果てまで見通すことができる。
天体望遠鏡で宇宙の果てを見ることができたとすれば、その姿は百数十億年前の姿で
ある。
そして、現在の姿を見ようとすれば、最低百数十億年待たねば不可能である。
光にしても電磁波にしても、秒速三〇万キロの速度しかないからだ。
ところが、人間の思いはどうだ。
一千億年の先まで、考えることができる。
あらゆる障害を超えるのは、宇宙の心の分身である「人のま心」ということになる。
時空など平気で超えることのできる、ま心の力が、人間の病気を難なく治せるのは
当然ではないか。
いや、病気だけではない、ま心の力は心の悩みを解決し、人々に幸福をもたらす。
幸福こそ、宇宙の秩序に従うものだからだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
思ったら即行動を勧める理由
 

軽挙妄動という言葉がある。

事態を充分に把握しないままに行動を起こすことで、その結果、泣きを見ることが多いと
いうわけだ。
ところが、私は傍から見ると、軽挙妄動と思われることがあるらしい。
昭和五十年二月一日。
序章で述べたように私は、宇宙からの力を授かったが、それから間もなく、永年勤めた
会社を辞めようと決意した。
超念力を活かし、不幸な人々を助けるのが、私の生涯の使命であると考えたからだ。
その時、娘は私の妻にこう言ったという。
「お父ちゃん、ボケちゃったよ。精神病院に入れなけりゃ駄目だよ」
殖産住宅の営業マンとして、抜群の営業成績を挙げ、確固たるポジションを確保していた
人間が、何なのかも判然としない力を頼りに、人助けをしたいと言い出したのだから、
娘がそう言うのも無理はないし、第三者から見れば、大笑いであっただろう。
しかし、私は後戻りすることはなかった。
「そうすべきだ」という思いよりも、遥かに強烈な 「そうするのだ」 というひらめきを感じた
からである。
その後も、私は常に 「ひらめき」を唯一絶対の指針として人生を歩いてきた。
ESP本部を現在の場所、上野に移した時もそうだった。
「よし、ここを本部にするぞ!!」
頭をかかえたのは、経理担当者である。
ビルの二フロアを、借り切る金など何処にも無かったからだ。
しかし、私にとって、そんな事にはかまっておれない。
いや、ひらめきによってもたらされた行動には、ちゃんとそれなりの結果が伴うことが
私には判っているのである。
そして事実、たちまち、上野に本部を移すことができたのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

見通しとは神の秩序に他ならない

 
ひらめき即行動がとれるのは、見通しが立っているからだと述べたが、この見通しとは
何か。
普通の場合であれば、目算であったり、予定であったり、皮算用であったりするのだが、
目算は得てして狂うし、予定は未定ということでもある。
皮算用は取らぬタヌキの何とやらで、これまた当てが外れることが多い。
私の見通しとは、そういった願望を支えにしたものではないのだ。
この世は何によって動かされているのか。
宇宙の秩序であり、その秩序を創った、ある存在である。
言葉を換えれば神ということになるが、その神の創った秩序、宇宙の仕組みに従えば、
目算倒れに終わることはない。
見通しとは、この秩序、仕組みを知るということなのだ。
ではどうすれば知ることができるのか。
実は、直接知ることはできない。
斯くなる見通しがあるから、斯くの如く行動するというわけではないのだ。
心のひらめきを即行動に移す。
人間すべて生まれた時から、何をなすべきか、どうしたら良いかの運命は定まっている。
だからそれが見通しに対するひらめきの発生である。
このことが、神の意に適っているから、神の見通しに添って良い結果を得られるのである。
これを逆に言えば、心のひらめきを行動に移せない人は、見通しのない人ということに
なるのだ。
ESPのワンダーシールを、水道やガス、電気のメーターに貼ると 「消費量が著しく減る」 
という報告が、全国各地から届く。
ある工場では、月々六十万円も料金が少なくなったそうだ。
ガス会社、電気会社、あるいは水道局にとってはショックな話かもしれないが、消費者に
とっては、これほど有難い話はない。
もし、お疑いなら、貼ってみることだ。ところが、私の言葉を聞いても貼らない人が多い。
シールを貼るという、ごく簡単なことを躊躇する。
得をすることが判ってもやらない、いや、やれないというのは、ひらめきを即行動に
移せない人、すなわち見通しのない人ということになる。
私の指導会に出席した人にも、その手の人がいないわけではない。
目のあたりに普通ならあり得ない奇跡的な事柄を見たにも関わらず「本当なのかしら」と、
己の目を、そして己の感性を否定する。
その結果、あたら手の届く幸せを失ってしまうことになるのだ。