ひらめきの行動 Part.2

 
この現実になぜ目をそむけるのか?
 

私は自分が得た不思議な力を八次元パワー、そして超念力と名付けているが、一体

このパワーは何物なのか、私自身にも判らない。
しかし、力が何処から何のため来るのか、おおよそ推測することができる。
私は、指導会やこれまで著書の中で、このパワーを「神の力」と述べてきた。
私自身は宗教というものに無縁であるから、ここで言う神とは、キリスト教やイスラム教、
日本の神仏、あるいは新興宗教における神と同一ではない。
この宇宙には何だか分からないが、偉大な存在があり、万物を支配している。
たとえば、大宇宙が一定の規則を以って運行しているのも、銀河系小宇宙における
秩序も、この偉大なる存在の意志であると、私は考えている。
そして、太陽系第三惑星であるこの地球に人類が誕生し、繁栄の時代を迎えているのも、
この偉大なる存在の力によるものなのだ。
その力が私の体内を通して、人々に伝わった時、すみやかに病苦や悩みから解放される
のである。
しかし、直接私の講演を目にされた人を除くと、このパワーの実在が信じられないという
人が多い。
とりわけインテリ、エリートと称される人々がそうだ。
何事も論理的でなければ、納得しない。
理屈が通らなければ認めないという、いわば主実証義に基づいた教育を受けた人達に
とってみれば、超念力という言葉も、その実在性も、まったく理解の外なのだ。
しかし、それは大いなる誤りである。
すまず第一に人間には森羅万象、あらゆる事柄を認識る能力などありはしない。
そして第二に、人間の作り上げた論理は、きわめて不完全なものなのである。
もし、すべてが論理で解決できるのであれば、この世界はきわめて明確な形となり、
湾岸戦争など起きるはずもなく、人類は究極の目的である 「恒久の平和」 と
「至上の幸福」 を手に入れているはずだ。
ところで、本当の意味での知性と知識を得ている人にとっては、超念力など何の
不思議でもない。
なぜなら、現代科学の後を担うべきニュー・サイエンスでは、このような力の存在が
肯定されているからである。
ニュー・サイエンスは、 「意識こそが物質である」 とか 「可能性のあることはすべて
起こり得る」 という言葉に表現されるように、現在広く知られている正統科学の常識を
打ち破る、新しい時代の科学といわれている。
 
 
 
 
 
 
 
 

続けて起こる奇跡は奇跡ではない

 

私が超念力による治療を開始して、十六年目を迎える。

どこの講演会でも、早朝、いや前夜から行列を作って待ってくれている皆さんを見ると、
私は心が引き締まる。車椅子に乗っている人は、何とか歩けるようにしてあげたい。
ガンに冒されている人を苦しみから救い出してあげたい。

目や耳が不自由な人をできるだけ健常者に近づけて差し上げたい。

その思いだけで、私は壇上に立つ。満場の参加者の顔々々。皆さんの「早くよくなりたい」 
という思いが、私の方にひしひしと押し寄せてくるのがよく判る。

各地区の指導会で指導員や支社の人達がマイクを持って、会場内を行き来する。

「脳梗塞を病んで、左半身が不随でよく歩けないし、口も不自由です。先生宜しく

お願いします。」 車椅子に座っている患者さんの脇に立って涙ながらに訴えているのは、
お嬢さんなのだろう。

「判りました。右脳、左脳、脳と脳の間、脳の下部組織、脳下垂体、臍の上と下」

私はそう口にしながら、集中し、超念力を送り続ける。

「右脳、左脳」 といった言葉を口に発しなくても、本当は構わない。

しかし、患者本人はもちろん、他の参加者の人々に障害が起きている部分を理解させる

ことも必要なのである。「臍の上と下」 脳とは直接関係がなさそうな部位であるが、実は

この部分が大切なのだ。すでに述べた通り、人間の器官は、それぞれ密接につながり
合い、なおかつ部分が全体であり、全体が部分という関係にある。
東洋医学には、経絡という言葉がある。血管やリンパ腺、神経といったもの以外の

ラインが体内を巡っており、身体全体の相互関係を司っているというのが東洋医学の

考え方だが、私もそのような組織があると考えている。

とりわけ、臍の周辺には、脳の働きと密接微妙に影響しあっている組織がある。

座禅を組む時に 「臍下丹田に力を入れよ」 と言われる。
臍下丹田とは、臍の下の部位であるが、人間にとって極めて重要な部分であることを

禅僧達は長い経験の中で知ったのだ。時間にして約三十秒、私は目を半開きにしたまま

である。私の体を通過した心の熱は、患者に放射される。

患者はことごとく障害のある部位に熱さを感じる。熱さといっても身を焦がすほどの熱さ
ではない。患部をやんわりと温める感じであるようだ。
ようだというのは、私が超念力を送るときは、熱を感じないからである。

再三述べるように、超念力は私の力ではないから、できないと考えたことはないのである。

患者さんに放射された心の熱は、恐ろしいエネルギーをもって、はね返ってくる。

目を閉じていると、そのエネルギーが、もろに私の体内に流れ込んできて、時には
めまいを感じてしまうことがある。「どうですか。よくなったでしょう」と問い掛ける。
付き添いの人の場合は、本人がよくなったかどうか、瞬時には判断がつかない。

「声を出してごらんなさい。ゆっくりでいいから」脳梗塞で口が利けなかった患者が、

「センセイ、アリ……ガトウ……ゴザ……イマス」

「もう少し、大きな声で言ってごらんなさい」 「センセイ、アリガトウ……ゴザイマス」

「ほーら、しゃべれるようになったでしょう」付き添いの娘さんが、涙を流している。

「じゃあね。歩いてみようね。娘さん、肩を貸してあげてください」

娘さんの介添えを受け、車椅子から立ち上がり、一歩二歩、危なっかしい足つきだが、
それは久しぶりに歩いたためである。

長い間、病床にいた者が立ち上がったとき、めまいを感じるのと同じようなものだ。

さらに二歩、三歩。「どうですか、歩けるでしょう」「はい、歩けます。歩けます」

娘さんが絶叫する。参加者達が患者さんの周りを取り囲む。奇跡をこの目で確かめたい
と思うからだ。「よかったねえ。これから、少しずつよくなっていきますよ」

会場から、大きな拍手が巻き起こる。二、三分の出来事である。

しかし、これは奇跡じゃない。どこの講演会でも、同じような光景が展開されるのだ。
 

不幸は自分で招いているもの

 
この世が幸福の宝庫ならば、なぜ不幸な人が存在するのか。
その人の心に問題があるからなのだ。
時と場合によって人は不幸な環境の中に放り込まれることがある。
不慮の交通事故に出会ったとか、思わぬ天災に巻き込まれるといったことがそれだ。
また、自分に一切の関わりがないにもかかわらず、劣悪な家庭状況の中で生まれる
ことだってある。一体なぜ、自分だけこんな目にあうのかと、世を恨み、親を恨み、人を
恨みたくなるかもしれない。しかし、程度の差こそあれ、人は何がしか、他者に劣る部分を
持っているし、不幸の元を抱いているものなのである。例えて云えば、それはガン細胞に
似ている。ガンを業病のように考えている人がいるが、そうではない。
どんな健康な人間でも変性細胞=ガン細胞を持っている。
要は、その細胞が増殖するかしないかの違いでしかないのだ。
ガン細胞を食い潰す細胞が活発に活動していれば、発病することはないし、活動が
不十分であれば、ガン細胞はひたすら増殖してしまう。
不幸の元を食い潰す元気さがありさえすれば、人は不幸から立ち直ることができるのだ。
私は、三歳の時に母親を喪った。まもなく、父は後妻をもらったが、私はこの継母とうまく
いかず、家を出た。加えて実家は破産の憂き目にあい、貧乏のドン底に落ち込んだ。
まあ、最悪の家庭環境とは言わないが、恵まれていたとは、逆立ちしたって言えない。
しかし、私は自分が不幸だと思ったことは一度もない。
生きていること、そして生活するために働くことができたことを、無上の喜びに感じた
からだ。学校に行きたかったにもかかわらず、経済上の問題で、行けなかったのは
辛いことではあったが、不幸であるとは思わなかった。
勉強なんか、その気になればどこでもできる。生きてさえいれば、見るもの聞くもの、
皆勉強だ。尋常小学校の通学路にある寺の前に黒板が建っていた。
「なにごとのおわしますとは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
「明日あると思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」
いずれも西行法師の歌であることを後で知ったが、私はこの二つの歌をそらんじ、常に
その意味を問いながら少年時代を過ごした。思えば、これは私にとって、大変な勉強で
あった。何物なのか、正体を追究する必要はない。
心に有難く思えさえすれば、素直にそう感じられる人間でありたい。
明日があると思うから、人は怠惰になる。
今日のこの時を大切にするという真剣さが、明日存在を約束してくれるのだ。
そう思うところから、私の 「ひらめき即実行」 という生き方が形づくられてきたのである。
そして、現在私は 「成るようになる」 と信じて生き、事実そうなっているのである。