最後の超念力 第一弾 Part.2 |
| 本人が電話に出なくても治療は出来る |
| 電話治療とは |
| 前に千葉県のある主婦の例を紹介してあるが、そのケース同様、電話口に本人が |
| 出なくても、電話治療は出来る。 |
| 電話を使うのは、忙しくて直接会えないからである。 |
| 電話だから特別の効能がある、と言う訳ではない。 |
| 時間は一分間から長くても三分間位。それで十分だ。長くかける必要はない。 |
| 電話口には、家族の人が病人の代わりに出る事が多い。それでも治療は出来る。 |
| 効能に変わりはないのである。 |
| 電話で念力が送れるのか、と疑う人も居るだろうが、時間と距離に関係のないのが |
| 私の力だ。遠いからと言って、力が弱まる事はない。 |
| また、前に書いた通り、電話線が私の念力を運んでくれるという訳ではない。 |
| ただ、私が念力を送る相手を確認出来ればいい。その為の電話なのだ。 |
| ある講演会の時に、「ESPテープの効能が神のパワーによるものだとしたら、人によって |
| テープの効果に違いの出る事はないはず」という指摘を受けた事がある。 |
| 質問者はキチンとスーツを着込んだ立派な紳士だった。 |
| 質問者の言いたかった事は、神は全てに公平であるから、テープの効能もまた全てに |
| 公平でなければならない、と言う事だったと思う。 |
| 私はその時、少しの間も置かず、「あなたの言われる通り、神の徳は公平だ。 |
| だが、人の行為は公平とは言えない。 |
| 明るい人もあれば、暗い人も居る。 |
| それを神が同等に扱ったら、神は不公平、と言う事になる」と答えた。人は様々だ。 |
| 素直な人、考える人、いい加減な人、実直な人と、色々居る。 |
| もちろんずるい人も居るだろう。 |
| 私の電話治療に対してだって、そんな事で本当に効果があるのか、と疑う人が居る。 |
| でも、疑ってはいけない。 |
| 疑う位なら、相談に来ない事だ。 |
| 心を閉じていたのでは、せっかくの治療も効果をあげる事が出来ない。 |
| もともと、私の力は常識では理解出来ないものなのだ。 |
| そんな私の力の前に常識で身を固めて立っても、それはナンセンス、と言うものだ。 |
| 効果が無くて当たり前、だ。 |
| どんな僻地の人でも治療を受けられる |
| 遠隔治療とは |
| 近代医学の最も不便な所は、医者が居なければ治療が出来ない事だ。 |
| ケースによっては、病院その他の施設がないと治療が出来ない事もある。 |
| これでは僻地の人は、ただ病気のまま死を待つ事になり兼ねない。 |
| 事実、僻地医療は一つの社会問題になっているのだ。 |
| 医者も人の子。自ら進んで僻地の医療に尽くそうと言う人は少ない。 |
| 人間なら誰でも、安楽に、しかも豊かに一生を送りたい、と考える。 |
| 僻地に医者が少ないからと言って、医者に仁心が足りない等とこれを責める事は |
| 出来ない。やはり、僻地は僻地なのだ。 |
| ところが、私の八次元パワーを以ってすれば、この僻地の医療も困難なくこなす事が |
| 出来る。 |
| 電話治療と異なる所は、電話機があるかないかだけだ。 |
| そして電話機は無くても、相手さえ特定出来れば念力を送る事は出来るのである。 |
| 私の中に、「この人に念力を・・・」と言う思いだけがあればいい。 |
| 思って行うという方法論は、直接治療の時と変わりない。 |
| この人をお願いしますと念じれば、八次元パワーは時間と距離を超える。 |
| 例えはメモ用紙に、相手の名前と症状を書いてもらう。それで十分だ。 |
| 指導員の中にはメモに住所、氏名、年齢、生年月日、を記入し、写真を貼る人も居るが、 |
| 私にはその必要がない。 |
| 誰が、どういう事で困っているのかだけが判れば、念力は選択的に作用して、その人の |
| 悪い所を浄化する。 |
| その人が何処に居ようと構わない。遠隔治療たる所以だ。 |
| ここでもう一度断っておくが、治療を受ける人は、どうしてもその病気を治すのだ、と言う |
| 強い意志を失くしてはいけない。 |
| こちらだけが精神を集中して念を送っても、受け手の心が閉じていたのでは、効果が期待 |
| 出来ない。 |
| 念力パワーは霊障を取り除き、滞っている生命エネルギーの流れを円滑にし、その人 |
| 本来の自然さを取り戻す。その為に、物理的な操作は一切行わない。 |
| 八次元パワーは完全なのだ |
| 手術は物理的な作用で病気を治そうとするものだ。 |
| 念力は違う。 |
| 念力パワーは、霊障を取り除き、滞っている生命エネルギーの流れを円滑にし、その人 |
| 本来の自然さを取り戻す。その為に、物理的な操作は一切行わない。 |
| つまりは、内側から生命力を十分発揮出来る状態にするのである。 |
| そうすると、患者はその人本来が持っている生命力を取り戻す事が出来る。 |
| その結果、病気が治る。 |
| つまり念力は、ただ病気を治す、というだけのものではないのだ。 |
| それ故、ただ病気を治したいとだけ考えている人は、病気は治るがそれ以上の進展は |
| ない。 |
| 逆に、普段から瞑想などで精神の浄化に努めている人は、病気が治るだけでなく、 |
| 自然や神のエネルギーを感じる事が出来る。 |
| よりレベルの高いところで、心身を浄化する事が出来るのだ。 |
| 意識レベルの低い人のケースでは、なかなかそこまで念力が作用しない。 |
| 八次元パワーには、もはや付け足すものは無い。完全なのだ。 |
| つまりは何に対しても < 完全 > なのである。 |
| とりあえずは、宇宙をイメージしてもらえばいい。 |
| それ故、このエネルギーを受ける者は、心を開けば開くだけ、より強いパワーを自分の |
| ものにする事が出来る。 |
| 私の役割は、その神の力をどれだけ純粋に伝える事が出来るかにある。 |
| その事を考えて、私自身も日頃から自分の精神の浄化に努めている。 |
| 人間は精神を持つ生き物だ。 |
| そこを忘れて、本当に人間らしい暮らしを実現する事は出来ない。 |
| 癌患者の症状も数分で |
| 癌の人も随分治した。癌患者は五分間念力をかけるだけで症状が変わって来る。 |
| 癌は不治の病気と言われている。 |
| 丸山ワクチンその他、色々と新しく工夫された治療薬や治療法が開発されているが、 |
| 未だに決定的なものは一つもない。 |
| 癌に冒されれば死ぬ、というのが現代の常識である。 |
| 私はこの常識も、八次元パワーによって克服した。 |
| 幾人もの癌患者を念力で治したのである。 |
| 癌では、沢山の偉い人が惜しい命を散らしている。 |
| もう一年生きていたら、あるいはもう半年生きていたら、人類の為にどれほど役立つ事を |
| してくれたか判らない様な人が、癌に冒され、現代医学ではどうにもならないままに |
| この世を去っている。惜しい、の一言だ。 |
| こう書いてくると、それなら何故もっと癌患者の治療に手を尽くさないのかと言う批判が、 |
| 読者から私にぶつけられて来ても不思議はない。 |
| 私も、沢山の癌患者の治療に尽力したいのだ。 |
| ところが世間の常識は、読者や私が考える程新しいものに対して寛容ではない。 |
| 歴史が証明している通り、< 現状 > は中々閉鎖的なのだ。 |
| 自分の力で癌が治ると判った時、私は九州の国立癌センターを訪れて、治療させて |
| ほしいと頼んだ経験がある。結果は―ダメだった。 |
| そんな事は出来ない、と断られたのだ。 |
| 私は患者の人には手を触れないから、患者の人に会わせてくれないか、と頼んだ。 |
| それでも答えはノーだった。 |
| どうしてもやらせない、と言うのだ。 |
| 私は幾人かの患者の治療をやらせてもらえば、私の力がよりはっきりしたものになる、 |
| と確信していた。 |
| そうすれば、病院で治す事の出来ない患者の中から、再び命を手にする人が現れて |
| くるのだ。 |
| 私は全力を尽くしたい |
| 元々考え悩む事が、私は苦手だ。考え始めると、身体か動かなくなってしまう。 |
| それ故、この時も、私は非国民呼ばわりに耐える事が出来なかった。 |
| 沈思黙考は、私の最も苦手とするところだ。 |
| 色々自分の中に、自分向きの理屈を探す様な事も、私はしない。 |
| しないと言うより出来ないのだ。 |
| いつも悩む事なく、心も身体も明るく健全でいなければならないと言うのが、私の信条で |
| ある。 |
| 立ち止まってゆっくり考える事など、とても出来なかった。 |
| それで、私は日本を出てしまう。 |
| 昭和十三年に台湾へ。そして十六年には満州へ、という具合だ。 |
| 相談する相手はいなかった。 |
| 貧しい環境の為、自分の事は自分で決めなければならなかった。 |
| その上、立ち止まっていたら、明日の糧を得られないまま飢えてしまう。 |
| 私が悩む事を嫌ったのと、家の貧しさは無関係ではない。 |
| 思いついた事をすぐに行動に移さないと、飢えてしまうのである。 |
| ともかく私は、自由奔放の生活に入った。 |
| 見知らぬ土地へ行く事に不安は無かったか、と後年よく人に聞かれた。不安は無かった。 |
| 立ち止まっている方が、私には不安だった。 |
| 未知に挑めば、そこには必ず進展がある。 |
| また、夢中で仕事に没頭出来る。 |
| その相乗作用で、私はいつも身体の中に勇気を感じていた。 |
| 忍耐仕切れなかった私も、未知、未開に挑む事に不安は無かったのである。 |
| もちろん若さのせいもあっただろう。 |
| だが、その根底にあったのは、私の貧しさだ。 |
| そして、私の超念力の源泉は、世間の苦労を苦労と思わず、明るい心で、考えすぎず |
| 思った事はすぐ実行するところにある。と信じている。 |
| その後私は逆境の少年期から、孤独の青年期を経て、一人の平凡な社会人として殖産 |
| 住宅に席を得、二十年近い年月を、ごく在り来たりに過ごしてきた。 |
| ただ、在り来たりと言っても、自分の考えをすぐ実行に移す私の考え方は変えなかった。 |
| 発想即行動である。 |
| よく講演会などで、先生はどうしてそんなパワーを持つようになれたか、という質問を |
| 受ける。もちろん確かな答えなど、私の中にある筈もない。 |
| 私は凡人だ。先祖に偉い人物が居た訳でもない。 |
| 先祖の事など考えた事もない、平凡な人間だ。 |
| ただ、もし、私が昭和五十年二月の不可思議な体験を経て超念力者になったルーツを、 |
| 敢えて私の周囲に探れば、それは発想即行動の私の生き方にある、と言えるかも |
| しれない。 |
| この発想即行動は私にとって楽しい事であり、そのお陰で六十五歳の私が、自分を |
| 四十歳代に感じる事がある。疲れはない。 |
| この本を読み終えた読者に |
| < 最後の超念力 > とはどういうものだろうか。 |
| それを自分の五感で確かめたいと思う人は、私の主催する指導会をのぞいて見ては |
| どうだろう。 |
| 一般に言われている超念力は、その殆んどが信仰を前提にしている。 |
| しかも信心、修行を積んでも、体得するのは難しい。 |
| ところがこの八次元パワーは、誰でも体得でき、誰にでも利益を授ける。 |
| 私が、世界平和は八次元パワーから、と確信する所以である。 |
| 八次元パワーに限界はない。 |
| 病気に始まり、事業、家庭、人間関係に至るまで、ありとあらゆるものに奇跡を起こす。 |
| この念力が在ればこその、物心豊かな生活なのである。 |
| やがては、農業、商業、科学、工業といった地球規模の分野で、不可能を可能にして |
| 行くに違いない。 |
| 人間を幸福にする為に八次元パワーは出現した。 |
| 私が最後の超念力と呼ぶのは、末世と言われるこの地球を救うのはこの八次元パワー |
| しかない、と信じているからである。 |
| この本で八次元パワーを体験された読者の方は、すでに私と同じ様に人助けをする |
| 役割を神から与えられているのではないだろうか。 |