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最後の超念力 第一弾 Part.1 |
| 石井普雄先生・著作の「最後の超念力 第一弾」より抜粋致しました。 |
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一冊 \ 1,100 (税込定価 816円+送料 284円) |
| この本を読みだされる前に知っておいていただきたいこと |
| 超念力 ―― といっても、そんなものはない、と眉をしかめる人が少なくない。 |
| これはしかたのないことだ、と私は思う。 |
| なにしろ異次元のことだ。超念力がある、と言明している本人にも、その超念力の拠って |
| きたるところはよくわからない。 |
| もしわかる、という人がいれば、誰にでもわかる言葉でそれを説明してもらいたい。 |
| もしそれができれば、物理を越えた新しい力の発見として、人類の進歩に役立つこと |
| まちがいなしだ。まさしく、驚異の発見になる。 |
| 少なくとも、私にはできない。また、その種の明快な説明というのを聞いたこともない。 |
| よく超能力という言葉は耳にはするが、一体この世に超能力なるものがあるのだろうか。 |
| だから、超念力も、まだよくわからない力なのである。 |
| では、超念力はインチキなのか・・・・。 |
| その問いに対する答えは否である。それは断言できる。 |
| では、どうしてそれを証明できるのか――。 |
| その方法はひとつしかない。奇跡を見せることだけだ。 |
| 私は念力によって病気治療をしている人間だ。 |
| その私に病気が治せない、となれば、私の超念力はインチキ、ということになる。 |
| ところが幸いなことに、天啓によるパワーを得てから十年ちかく、私は病気治療に数え |
| きれないほどの成功例を残すことができた。 |
| 今ここで、私の超念力は本物だ、といい切れる要因もそこにある。 |
| 出来るから、できる、というまでだ。 |
| 超念力とは発想即行動だ !! |
| 私にどうしてパワーが宿ったか。 |
| なぜか私にもわからない。ただ突然不可思議な体験が私を襲ったのだ。 |
| 昭和五十年のことだった。 |
| その頃の私は殖産住宅の大阪支店に勤める平凡なサラリーマンだった。 |
| 人並みの苦労をして、人並みの平安を得た定年まぢかの営業マンだった。 |
| 十八年半勤め、仕事にもそれなりの満足があった。 |
| それは正月気分もすっかりぬけた、二月一日の夜のことだった。 |
| 風呂に入ったら突然からだがカーッと熱くなった。 |
| あまり病気はしたことがなかったが、ただ血圧が高かったので心配をした。 |
| そこであわててフトンを敷いて横になった。 |
| しばらくウトウトして眼をさますと、左手がひとりでに持ちあがって宙に字を書きはじめた。 |
| 意識ははっきりしているのだが、身体は硬直して動かない。 |
| ただ指先が字を書いてゆく。 |
| < ヨガキ、ヨガキ・・・・・> |
| 宙に書いた文字だ。 |
| 私には何が何だかわからない。 |
| 身体はたしかに横になっているのに、指先だけが勝手に動いた。 |
| エライことになったと、暗い部屋の中で息をひそめていると、指先の動きが変わった。 |
| < タスケ、タスケ・・・・・>になった。 |
| 私はびっくりして、一瞬、どうしてよいかわからなくなった。 |
| 数秒して、私自身の体に電光のように直感が走った。 |
| 神が、人助けをしろと私にいっているのだと気づいた。 |
| 神の力だ。 |
| 私は、その直感はまちがいないと思った。 |
| それからだ。私に不思議な力がそなわるようになったのは。 |
| 次の日、勤め先の殖産住宅に外勤からもどると、同僚が机に伏している。 |
| 聞くと、頭が痛いというのだ。そこで私は、自分の力を試すことにした。 |
| 指先を同僚にかざしたのだ。 |
| 時間にすればたった数秒間であったろうか・・・・。 |
| その時、それで同僚は治ったのだ。 |
| それで、私の直感にまちがいのなかったことが証明された。 |
| 私はひらめきを大切にする |
| 私は高等小学校しか出ていないから、いわゆる学問がない。それに家が貧しかった。 |
| だから何でもスグにやらなかれば暮らしを成り立たせる事が出来なかった。 |
| 良くも悪くも手当たり次第だった。失敗もあった。 |
| でもその日暮らしのやり方でも、何とか自分なりの人生を開くことは出来た。 |
| 神の声を大切にしたからだ。 |
| とかく人は「ああしてはいけない。こうしてはいけない」と自分を押さえ込もうとする。 |
| 教育のある人ほどそうだ。 |
| もちろん、社会生活をしていく上で、他人に迷惑を掛けないように配慮することは大切だ。 |
| でも、自分のこととなれば問題は別になる。まず迷わないことだ。 |
| 誰でも一日の内幾度か、ああしよう、こうしよう、というような直感がスッと頭に閃くはずだ。 |
| この直感を私は大切にする。 |
| 直感は神の声だ。 |
| 神仏の利益は、待っていて授けてもらえるという種類のものではない。 |
| 神仏はスグに力を出す。 |
| 博多の講演会では、ある主婦に、「頭にひらめいた事をスグ実行に移しなさい。 |
| それが神の声だ」と教えた。私の持論だ。 |
| その人は私の言葉を実行に移したようだ。 |
| 二月にもう一度、博多で講演会を開いたときに顔を見せて、「お経をあげなくなったら、 |
| すっかり家の中が明るくなりました」と言ってくれた。 |
| ただ信仰にすがっても、利益は無いだけだ。 |
| 精神を鍛えるための信仰なら、これは無駄ではない。 |
| だが、信仰に利益を求めても証は現れない。 |
| 証を求めるなら、神の声に従うことだ。 |
| 電車に乗っているとき、町を歩いているとき、テレビを観ているとき、と、いつでも神の力は |
| 直感となって、私たちの頭にひらめく。これを大切にすることだ。 |
| 躊躇したり迷ったりすれば、もう本当の神の声がどういうものであったのか分からなくなって |
| しまう。 |
| 直感がひらめいたら、それをスグ実行に移す。 |
| そうすれば、おのずとそこから運が開けてくる。 |
| これは私が自分の体験から得た真理だ。 |
| 仏の真似事をして利益を求めようとしたり、迷ってばかりいたのでは駄目だ。 |
| 動けばマコトの声が聞こえる |
| 人間は思わぬところで、思わぬ発想が浮かぶものだ。 |
| たとえばバスのなかを思い出してもらいたい。 |
| 私はバスに乗っていると、いろいろことが頭に湧く。 |
| そういう経験をもっている人は、少なくないはずだ。 |
| 町を歩いているときも同じ。フッと直感が閃く。その直感こそが天啓だ。 |
| バスのなかで、あるいは歩いているときにひとつの考えが頭に閃くと、私はそれをメモに |
| とる。忘れてしまっては、二度と思い出すことができないからだ。 |
| 考えた末に行き着いた結論というのは、一度それを忘れてしまっても、なんとか推理の |
| 道をたどれば思いだすことができる。 |
| ところが天啓はべつだ。忘れてしまえば、それまで。 |
| だから私しはメモをいつも携行している。 |
| 家に帰ってからでは遅いからだ。 |
| 私の記憶力では、家に帰ってから、は不可能だ。 |
| また、じっとしているときには、天啓がない。動くことが必要だ。 |
| 動いていれば、神の教えはどんどん降りてくる。 |
| 動かずにじっとしていてもダメ。教えは来ない。 |
| 五感を開いていることが大切なのだ。 |
| じつとしているときは、とかく意識の流れが不自然になりがちだ。 |
| 自然界との調和がとれない。 |
| だから自分の考えにとらわれてしまう。 |
| そういう状態のなかから湧いてくるものは、価値のないものだ。 |
| 自然界と連動してこそ、神の声が聞こえてくる。 |
| そのためには五感を開く。つまり意識を自由にすることだ。 |
| そうすれば、自然といろいろなものが聞こえてくる。 |
| ともかく、暗いところでじっとしているのはよくない。 |
| 光のなかへ出て、からだを開くのだ。 |
| そうしてこそ、マコトの声が聞こえてくる。 |
| 心におごりを持てばパワーは消える |
| 現実にたくさんの人を治療してゆくと、手に受ける感覚が変わってくる。 |
| パワーがアップしてゆくのが、自分でもわかるわけだ。 |
| 一見、なにも見ていないようだが、手に触れる感覚として、見るべきものは見ている。 |
| これは私に限ったことではない。人間には五感というものがある。 |
| 視る、触れる、聞く、嗅ぐ、味わう、五つだ。 |
| つまり、私達は見るだけではないのだ、触れることでも物の存在を知ることができる。 |
| この触れる感覚は、なにも物にさわっていなければ生まれてこないというものではない。 |
| 試しに目を閉じて、なにかに掌を近付けてみるといい。 |
| あなたは、触れることなくなにかの存在を感じるはずだ。 |
| 私も同じ。ただ、私は現実にあるものを、また現実を超越したものを、天の力を通じて、 |
| 一般の人より敏感に感じることができる。 |
| 例えば、胃潰瘍の人が治療に来たとする。私にはわかる。 |
| いったいどこに潰瘍があるのか、わかるわけだ。 |
| 治そうと念力をかけると、なにかが私の手に感じてくる。 |
| それが治すべき悪所なのだ。 |
| そこで、私はそれを放り去る。それで治療完了になる。 |
| パワーがアップした、という感じも、こういう治療のときの感触でわかる。 |
| あとは実際の成果で、それが証明されるのである。 |
| ともかく、私は昭和五十年に天啓を受けてから今日まで、ずいぶんパワーがアップし、 |
| またそのパワーの幅も広くなったことを実感し、また実証してもいる。 |
| ただし、修行をして得た力でないことはまちがいないのだから、これだけのことができると |
| いっても、それは私の力によることではない。神がすることだ。 |
| それゆえ、心におごりを持てばパワーは消えてしまう。 |
| パワーがアップしたといっても、私の力がアップしたのではなくて、媒体としての私の能力 |
| がアップしたのである。そのことは、私自身忘れないようにしている。 |
| 自分の力でこれだけのことができた、などと考え始めたなら、私には何も出来なくなること |
| が分かっているからだ。 |
| 私からパワーを授かった人も、謙虚な人ほどパワーが伸びる。 |
| やはり純粋な人間性がなければ、心の力も伸びないということだ。 |
| 念力治療法にルールはない |
| ここで念力治療そのものについて、少し説明しよう。 |
| ことわっておくが、私は治療家ではない。もちろん医者でもない。 |
| 天啓によって人助けをしている者だ。 |
| 病気治療は、そうした私の活動のひとつの側面と考えていただきたい。 |
| ただ、この世に病気ほどいやなものはない。 |
| それゆえ、私はこの病気治療に全力であたっている。 |
| また、念力による病気治療に、いわゆる定まったルールや決めごとがあるわけではない。 |
| ここに紹介する三つの方法は、私が神の声のままに、自然と行って成功した、というだけ |
| のものである。 |
| さて、念力治療だが、これには現在三つのスタイルがある。 |
| 「直接治療」「電話治療」「遠隔治療」だ。 |
| このうち、直接患者を前にして行うのが「直接治療」、電話で念力を送るのが「電話治療」、 |
| 遠隔操作で送るのが「遠隔治療」である。 |
| 一通りこの三つについて、それぞれの治療方法を解説しよう。 |
| 治療方法といっても、なにか特別なものがあるという訳ではないが、読者の参考のために、 |
| 簡単な説明をしたい。 |
| 直接治療とは |
| まず直接治療だが、これは患者と私が直接向い合って行う治療法だ。 |
| 患者の人に施療室に入ってもらい、私の前に座って頂く。 |
| 施療室といっても、仰々しい機械がある訳ではない。 |
| そこには、だたの空間があるばかりだ。 |
| 私は患者の方と向かい合って座り、患者の人には目を閉じて頂く。 |
| 目を閉じて頂くのは、精神を集中してもらうためだ。 |
| そうして私は「患者の人から痛みを取って下さい」と心で念じる。 |
| 私自身、あまり細かい注文を付けない。治すのは私ではなくて、神だ。 |
| それゆえ、ああだこうだと私が言っても、かなずしもそれがそっくり実現するとは限らない。 |
| 実現するのは、あくまで八次元の意志にかなった事だけである。 |
| 私はただ手をかざすだけ、と考えて頂いてもいい。 |
| ともかく、手をかざす。そうすると自然に一つの構えが出来る。そうして、私は念じる。 |
| この時は私の精神力の全てを込めて念じる。 |
| するとそのうち、手に下からの圧力が働いて、手は自然と動き始める。 |
| 私が自分を媒体者と言うのは、こうゆう体験の故である。 |
| 繰り返すようだが、私が治すのではなく、神が治すのだ。 |
| 手の動きがどういう事を意味するのか、私は知らない。 |
| ただ、そうすると病気が治る、という訳だ。 |
| あるいは、手の動きはエネルギーの動きを調節する為のものなのかもしれない。 |
| 私の身体を通じて、宇宙のエネルギーが私の指先から放射されているとも考えられる。 |
| その内、何かが私の手に感じられて来る。これが患部だ。 |
| そこで、その感じたものを、ポン、と逃がしてやるようにする。 |
| そうすると浄化とれる。 |
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